絶体絶命なとき

絶体絶命。

 それはマフィアに追われて袋小路に逃げ込んで、振り返ると黒服の男が三人くらい、銃を片手に迫ってくるときとか、地球に巨大隕石が衝突して地球が大爆発する時とか、いろいろ思い浮かぶかもしれませんが、でも、本当に絶対絶命なときは違いますよね。そうです。演奏を始めたのに、バンドのベースが機材トラブルで音が鳴らない時です。

 

 大きな会場、静寂の中にドラムのカウントが響く。暗闇と、沈黙を切り裂くように、ベース、ドラム、キーボードの前奏が始まる。はずだった。しかし、その瞬間に彼らは気づくのです。最も印象的なフレーズを担当しているはずのベースの音が聞こえないことに。どうしたとチラリとベースを見つめるドラム、キーボード。そして気がつくのです、機材トラブルだと。でも、演奏は始まってしまいました。照明も煌々とステージを照らしているのです。普通の演奏家なら、演奏を辞めてしまう事態でしょう。「トラブルです、トラブルです」と苦笑いを浮かべながらMCが始まることでしょう。でも、プロの中のプロはそれを許さないし、プロの中のプロはそれすら許せないのです。音楽を止めることは、演奏を止めることはできないのです。彼らは模索します、その絶対絶命な窮地を「音楽」として成り立たせる道を、目線と、今自分たちが持っている楽器の音だけで。

 本来であれば歌が入るタイミング、しかしボーカルは後ろを向いたまま歌い始めません。ドラムとキーボードだけが前奏のフレーズを繰り返します。ベーシストは機材トラブルの処理のため、その間に一旦舞台から消えました。果たして、いつ帰ってくるのかもわからない状況。前奏のフレーズだけが繰り返される中、フィルインを加えて場をつなぐドラム。しかしこれも限界があります。そんな短くも果てしなく長い30秒の後、ボーカルの女性は、静かに、果たして、それが予定調和であったかのように会場を振り返るのです。そしてマイクを握りしめる。無言で、「行こう」と伝えているのです。それにギタリストは呼応します。ベースが本来奏でていたフレーズを、ギターで組み入れます。それが歌を始める合図だと察知したドラムは、フィルインを入れます。自然に歌が始まりました。さもそういう曲であるかのように。そしてAメロ、Bメロを、ギターがベースのフレーズもカバーするようにつなげていきます。成り立っている。でも、このまま最後まで、ベースがいないままで進めていくのか。それでいいのか。そんな焦燥感が高まる中で、ベーシストが戻ってきました。彼の笑顔をみて、ドラム、ギター、キーボードは理解します。大丈夫だと。ニヤリと笑うギター、キーボード、そして「さあ行こう」とばかりの表情で、サビへのフィルインを叩き込むドラム。そこに、抑うつを吹き飛ばすかのように落ちてくるベースのグリッサンドと共に、五人の演奏が始まります。圧巻の時です。絶対絶命を乗り切った彼らに、恍惚の時間が訪れるのです。振り返ることもなく、それを予定調和であったかのように歌い続けるボーカルの歌声を、ベースが復帰した「完成したバンド」の音が包み込みます。そのコントラストが、ただの演奏では感じられなかった、バンドという形態の音の凄さを表現することになったのです。

 

これがまた、曲名が「絶体絶命」なのです。